引用

『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』岡崎京子、平凡社、2004

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 あの日あなたは恋人とのデートの時間を忘れてしまってその喫茶店に四時間もいたんだわ。本当の約束は午後三時だったのに午前十一時からその店にいて八杯のコーヒーを飲み、五つのドーナツを食べ三九本のタバコを吸っていた。私は私で自分の恋人の顔をうっかり忘れちゃってて、約束のテーブルに座ってたあなたに「あーら、早いじゃない」なんて言うなり腕をつかんでバーゲン会場までつれてっちゃってさ。〔……〕
 さっき少しけんかしたとき、あなたが怒って、一瞬部屋の外出てっちゃったでしょう? わたし、ごめんなさい言い過ぎちゃったごめんなさいって悲しかった。でももっと怖かったのはあなたが帰ってこなかったら、もうあなたを探せないってこと。あなたのこと大好きだけど、あなたの顔、忘れちゃってるの。そして、そのことで少しほっとしている自分に気がついたのよ。 続きを読む

引用11/06

もうじき、涙に代わって深いため息がやってくるだろう。思い出を、戻り来る亡霊を、呼び出すと同時に追い出して。元の親族が「なにもかもやってしまい」、きみの名を口にすることすらなく、思い出のかけらを話題にしても、ひたすら記憶の喪失のなかに没入し、忘却の河レテをせきたてるためならなんでもするのを、ぼくは望んでいない。「もうすぐじきに、不眠の逆がやってくるだろう[……]」

引用10/16

本棚にある任意の一冊から引用。

* * *

 名前のないひとりの娘が並木道を歩いている。顔のない娘が町を歩き回っている。彼女はもう生きていくことを知らない。彼らがやってきて、また連れて行ってくれるのを待っている。
 わたしは先を急いでいない。ぶらぶらし、通り過ぎ、引き返し、また進み、向きを変え、半回転する。ショーウィンドーに映った自分を眺める。パン屋。小さなリンゴのタルト、チョコレートのエクレア、いちごのガレット、オレンジのトリアングル、金色のメレンゲ。唇をショーウィンドーに押し当てる。わたしはお菓子を食べる。人はいつもそこへ戻っていく。摂取すること、飲み込むこと、やたらに食べること、むさぼり食うこと、詰め込むこと、がつがつ食べること、食い尽くすこと。ウィンドーのガラスの破片は、とっても冷たい。喉に残るし、消化が悪い。ガラスは声帯を切り刻み、唖者にする。死ぬ言葉。
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